第7回 ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 2019.08.29

美術大学におけるヒーリング・アートの研究と実践

女子美術大学芸術学部アート・デザイン表現学科
ヒーリング表現領域 教授
山野 雅之

もくじ


本記事は、2019年8月29日に開催された「2019ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 第7回」のレポートです。

アートとデザインで病院を変えたい


私は1992年から女子美術大学の教育の中でヒーリング・アート、癒しの芸術をテーマに医療空間のアメニティを高めるアートプロデュースや、学生に制作指導してそれをトータルにコーディネートすること、そしてそこからの検証を続けてまいりました。これまでに約50箇所の国公立病院、大学病院などでアートプロジェクトに取り組んで来ていますが、まずその事例をご覧ください。


病院の小児病棟

病院の代表的な空間の様子です。これは小児病棟ですが、病院というのはこの様な感じが多いですよね。
病院にアートが飾られていたとしても、医療環境とは関係の感じられない作品が多く見られるのが気になっていました。
たとえば、夜中に見ると怖いとか、暗いイメージじゃないかとか。けれども単に有名な作家の作品だからという理由で飾られている場合が非常に多い。患者や働く人たちの心のケアとアートとの関連を考えていない、ということに気づきました。病院は病気への不安を抱えて来る場所なので、アートで少しでも心地よい空間に出来ないか、ストレスが少しでも緩和できないか、という目的を前提にしてアートプロジェクトを続けて参りました。

私自身の体験ですが、30数年前、美大に勤め始めた時期に父ががんで入院しました。バブル経済が始まる頃で街にアートが溢れ、ホテルや高級マンション、テーマパークなども次々と出来てきた時期です。それなのに、大学の授業を終えてから病院に寄ると、アートの要素が何もない無機質な空間が延々と続いていました。しかも父は末期で死を宣告されていたので、「ああ、一か月もたないのか」と考え込んでしまいました。病院の長い通路の白い壁がグレーに見えてきて、家族にとっては心が締め付けられるような空気を感じました。
自分は大学でデザインの授業を担当していたのですが、美術の大学で教えている人間が問題に気づいているのなら率先して動かなくてはいけない、病院環境をアートとデザインで変えていかないといけないと思いました。学生たちにその様な話をしたら、学生たちの中にも同様の経験をした者がおり、「一緒にやりますか?」と問いかけると「やりたいです」と多くの学生が賛同してくれました。そこからアートプロジェクトが始まり、今日まで27年続いています。

そして「アートは医療環境に対してなにができるのか」が研究のテーマになりました。この頃アメリカの病院で使われていたヒーリング・アートという言葉を取り入れたのですが、医療専門書の編集関係者から、ヒーリング・アートの日本での分かりやすい意味づけをしてほしい、と言われ「さわやかな気分になって心が落ち着く効果や、元気づけを目的とした芸術」と私なりの定義づけ致しました。


制作するまでに徹底的に話し合う


ヒーリング・アートの制作について具体的にどういう進め方をしているかご紹介します。
病院におけるアートの設置は、医療環境づくりの一環として考えることが重要なのではないでしょうか。気持ちを緩和させるといっても、人それぞれ芸術に対して好みや理解も異なります。アートが人に働きかけるというのはどういうことか。何をどのようなかたちで設置するのか。
アートの種類や作品の内容、設置場所について、患者やご家族や医療スタッフの立場にたって検討する。そのためには話し合いをしなくてはいけないと思います。現場の状況を実際に確認して、医療スタッフや患者とコミュニケーションをとりながら何度かプレゼンテーションする。これが大事です。もうひとつ大切にしているのが、共同制作。直接医療現場を見て話を聞く。そこで感じたものを学生たちがみんなで話し合って方向性を決めていきます。

ところで、ヒーリング・アートとアートセラピーは同じものですかという質問をされる方がよくいらっしゃいます。

ヒーリング・アートとアートセラピーはどう違うか。アートセラピーは芸術療法と訳されるように、芸
術による療法・治療(therapy)であり、絵画、音楽、演劇、ダンスなどのプログラムに、患者自身が個人またはグループで参加して、芸術表現を通して精神的な療法をおこなうことを主な目的としたものです。セラピストの資格が必要であり、現在、日本ではまだ正式な資格を取れる大学はないですね。アメリカやヨーロッパの大学院に進学して、その後現場での研修をして初めて資格を取得してくるというのが現状です。それに対してヒーリング・アートは環境芸術の分野だという違いがあると説明しています。


ヒーリング・アートプロジェクトは次の様な流れで進めていきます。

  1. 医療・福祉施設からの依頼
  2. 現場の事前調査
  3. 学内において内容説明会
  4. 現場の下見、見学会〔作品設置場所の確認、イメージ作り〕
  5. 原画制作〔共同制作〕
  6. 作品制作〔共同制作〕
  7. 作品設置〔これまで50箇所の医療・福祉施設で実施〕
  8. 現場見学〔医療・福祉施設〕
  9. アンケートによる調査
  10. 調査の検証・分析

具体的な進め方ですが、事前の調査。内容を説明して現場を見て、作品を計画。共同制作して作品を設置、そのあと現場を確認して、検証する。その経験をまた次のプロジェクトに生かしていきます。
大事なのはプレゼンテーションですが、例えば病院側から「森の風景を」と依頼があって、「どの様な森をイメージしていますか」とたずねると、「私たち素人だからわからないんです」と返される場合が非常に多い。でも実際にイメージ原画を数十点並べてプレゼンテーションすると、色々な意見が出てくる、出てくる。「もう少し深い色がいい」とか「この木の枝ぶりはどうなのか」とか、急に厳しい意見が出ます。見せるものが何もない状態だとわからなくても、このように視覚化することで、沢山の意見が出てくる。それを持ち帰り修正してまたプレゼンテーションする。2回、3回、一番多い時は7回実施したこともありました。そうすると段階を追うごとに、学生も大学も病院側も最終的にどんなものが出来るか、一緒になって求めるイメージが浮かび上がってきます。


共同制作風景

プロジェクトを始めた頃は四角いキャンパスやパネルに描いたものが多かったです。この様にグループワークで「私は草原から」、「私は象から描く」という様に、一斉に描いていきます。原画の段階で何度も話し合って、皆、作品全体のイメージが頭に入っているので可能な作業なのです。時々下がって全体の進み具合を全員で確認していきます。「Aさん、自分の個性が出すぎてるよ」、「表現のタッチが他の人と違ってきているよ」とか。そんなことを繰り返しながら進めていきます。


作品の中に入り込めるように大きな絵画を


作品設置後の小児外来を確認に行く

日赤医療センター旧小児外来の待合の廊下です。小児患者があふれかえって、この壁に小さな足跡がいっぱい残っていた。1時間以上待たされる時もあり、つい壁によりかかって小さな靴跡をつけてしまう。「下まで壁画にしたい」といったとき、病院から意見を頂いた。「この靴跡みてください。絵が台無しにされますよ」と。でも絵が設置されてからまったく汚れない。実際現場を確認した時、診察を怖がり母親に引きずられるようにして来た子が、絵の前にさしかかると「お母さん、花がきれい」といって泣き止んで、しばらく話をしている内に、診察室に呼ばれて入っていく姿を見かけたりしました。


日本赤十字医療センター 旧病棟壁面 2005年

四角い画面から、もっと変化のある形にしようと、自由な形態のパネルにしました。そうするとストーリーが作り易くなります。四角だと高さや左右中心を合わせないとバランスが悪く感じますが、自由な形のパネルだと白い壁自体が画面になって、いろんな構成が出来る様になります。


木漏れ日の森 2011年

森に続く小道 2011年

2011年に、がん・感染症センター都立駒込病院から緩和ケア病棟の多目的室に描いてくれないかと依頼があり、病院との話し合いの中で、病院が都会の中にあって自然がまったく見えないので、大きな、自然を感じられるようなものにしてほしいとの要望が出されました。実際、足が弱って最後は車いすに乗っておられる方も多いので、学生たちも患者の動線と視線を確かめる為、車いすに乗って現場を回ってみました。
話し合いの結果、テーマは「木漏れ日」に、それから木漏れ日のイメージ画を沢山描いてプレゼンテーションしました。その中から最終的に仕上げたのが、この3点です。まず談話室に入る前の壁に森への小道がずっと続く作品。談話室の中は森の中、木漏れ日が差し込む風景。そして見上げる空が木の間から見える風景を描きました。患者やご家族が自由筆記帳に色々な思いを書かれているのですが、一部紹介します。

☆きょうは、おばあちゃんの最後になるかもしれない誕生日です。絵のある広い部屋をかしてくださり、ありがとうございました。ガンが治りますように。☆ HAPPY BIRTHDAY!☆ 
(12歳女の子)

東京都健康長寿医療センター 外国の風景・ギリシャ 2013年

東京都健康長寿医療センター 草原の風景 2013年

こちらも緩和ケア病棟。都立健康長寿医療センターを2012年に建て替えた翌年、大きな壁面が沢山あるので、エリアを分けて「草原、森、外国の風景、海の風景」という4つのテーマで作品制作することになりました。
作品設置をしていると、高齢の女性の患者が、設置する音を聞いて病室から覗かれていました。草原を描いた作品に気がつかれて、思わず病室から出てこられました。「病院がまるで自然の中にあるみたい」と言われて。「ほかのエリアには海の風景や外国の風景もあるんですよ」と伝えると、「それは楽しみだわ。毎日散歩したいような気分になってきたわ」と。すると看護師さんがすごく驚かれて、「あの方は、入院されてから一度も病室から出ようとされたことがなかったんですよ。絵の力ってすごいですね」と。
作品を大きくしたのには理由があって、例えばこの作品は縦2m横が4mくらいあるのですが、作品を大きなものにすることで絵の世界に入り込んで、あたかもそこにいる様な気持ちになれる。その患者も、「こういう草原に昔は家族でよくハイキングに行ったのよ。懐かしいわ」と笑顔で話してくださいました。


アートを通してコミュニケーションが生まれる


済生会横浜市東部病院外壁 2006年

屋外に設置した例もあります。済生会横浜市東部病院での取組みですが、縦4m横幅約36mの大きなコンクリートの壁に描くことになりました。壁のある場所は、以前は桜の木があったのですが、それを伐採してしまった。鶴見川沿いにあり、皆さんジョギングしたり散歩したりしているところですが、そこを通られた年配の方が、「桜の木が切られてすごく残念です」と。


済生会横浜市東部病院外壁 夕景2006年

「じゃあ、待っていてください」と、すごく大きな桜の花を描いた。壁の向こうが西側で夕日が見える。夕日と桜の色が調和するように空の色を調整しました。これもすごく喜ばれました。


7F小児病棟連絡通路


東京都立小児総合医療センター小児病棟連絡通路 夜景 2014年


都立小児総合医療センター。2014年、エレベーターから病棟に行く連絡通路が長くて子どもが不安がるので壁画で変えて欲しいとの依頼でした。通路に沿って横に長い構図の作品を提案し、絵の全体の流れをどうするかブレインストーミングによって、検討していきました。ブレインストーミングで大事なのは、お互いの意見を否定しないこと。まずいろいろなアイデア、意見を出してから絞り込んでいく。そのあと整理して、そこから何案かイメージ原画を描き、プレゼンテーションして最終決定していきました。
中庭から見る機会があったのですが、上と下の階でいろんな動きがあって、まさにドラマがある。ドクターと家族が話していたり、絵の前で立ち止まったり。絵と同時にいろんな世界が見える。
こうやって見ていくと、医療スタッフと患者とのコミュニケーションがアートを通して生まれる。そんな一助になればいいかなと。何もない空間ではコミュニケーションも生まれにくいですよね。


絵があることで会話が生まれる

入院生活のなかでも特に安定期、回復期、リハビリ期にアートが元気づけになったり家族とのコミュニケーションツールになったりする。実際に現場に行くと、こういう風景をよく見ます。会話が成り立っている。家族、ご夫婦、おばあさんと看護師さん。この様にアートが橋渡しになると思います。病院は治療行為だけでなくて、気持ちをやわらげ落ち着かせる為の心のケアが必要だと思います。そうした空間をアートで演出しています。


絵を設置出来ない場所にはデジタルシートで


電車車体のデジタルシート施工例

ガラス面や検査室、天井、床など、アートが描けない場所がありますね。そこで考えたのが、商業施設のガラス面や床面などに貼っているデジタルプリント粘着シート。取り扱っている業者に確認したところ、「そうした目的で使ったことがないだけで、もちろん使えます」と。2002年から、このデジタルシートを使ったプロジェクトを続けています。


制作の過程

電車の車体に貼ったりする非常に強いものですが、コンピューターグラフィックとか写真の画像がほとんどです。手描きの要素を大事にしようと、原画を描いたものをスキャニングしてデジタルアートにしました。シックハウスの原因にならないように安全性の高いものを選んで、小児病棟などに使っていますが、一度も問題になったことはありません。小児喘息の重い患者さんがいる病棟でもまったく問題ありませんでした。


デジタルプリント施工後の小児病棟・処置室


処置室は子どもが怖がる場所ですよね。2004年、横浜市立大学附属病院の小児病棟からの依頼で、まず現場に行ってみたら、とても怖くなる場所でした。ところがアートを施工したその日に起こった出来事の報告がありました。いままで「処置室に行くよ」というと泣いて嫌がる子どもが多くいたけれども、設置した日の夜に巡回をしていると、処置室のドアの隙間から光が漏れていた。入ってみると子どもたちが何人かいて、「何やってるの?」と聞くと、「だってこの部屋落ち着くんだもの」と。それで、使っていないときは開放してもいいのではという意見も看護師から出されたということです。


こわい検査機器がテーマパークのアトラクションの様


CTスキャナ機器

2007年、茨城県立こども病院の検査室です。CTスキャナは音も凄く大きいし、ベルトで体を固定され、一人残される。明日CTをするというと泣き出したり、検査室に入るなり、あばれて1時間も検査できない子もいる。


CTスキャナ検査室 施工後


この部屋を怖くない空間に変えられないだろうか。機械に乗って安全ベルトでしっかりと固定される、大きな機械音がする中、機械が動きだす。これはアートによって仕掛けをすれば、怖くて嫌な検査空間が、ディズニーランドのアトラクションの様にイメージが変わるのではないかと考えました。床にタラップを描き、CTの機械が潜水艇になり、海底探検をする部屋にしました。ラッコがこの病院のシンボルになっていたので、ラッコが操縦士。周囲の壁面にはイルカや魚、海藻が描かれている。小児患者は隊長になって検査台(潜水艇の隊長席)に。ベルトで体を固定するときも、「隊長、これから海底探検に向かいますから、動かないでくださいね」と。子どもは緊張せずに検査を受けてくれるようになったとのこと。


松本歯科大学病院 矯正歯科治療室

施工後


ガラス面もデジタルシートがすごく生かされます。松本歯科大学病院ですが、透過性をうまく利用すると昼と夜とでガラリとイメージがかわる。各ドアにはそれぞれアフリカの動物がいて、背景の緑はサバンナの風景で並びの治療室ともつながる様に描かれています。


診察室の中に物語が広がる


施工前の北里大学病院小児外来診察室ドア

小児外来診察室入り口


2014年、北里大学病院が建て替えられ、小児外来と小児病棟の空間をアートで演出しました。小児外来の待合スペースには絵本や童話の本が置いてあるので昔話をテーマにしました。診察室が15室もあるので、それぞれの部屋にピノキオや桃太郎など15の昔話をデジタルシートで演出しました。。これはオオカミと7匹の子ヤギの部屋。中に入って振り返るとドアの窓からオオカミが覗いています。診察台の周囲の壁に描かれているのは家具に隠れた7匹の子ヤギ。「あれ、6匹しかいないなあ」と思うと、天井に1匹。これで緊張感が解けます。


内部 オオカミと7匹の子ヤギ


北里大学病院の病棟のプレイスペースの天井もこんなふうにしました。退院間近で遊んでいる子どもに「来週退院だよ」というと、「もう少し此処で遊んでいきたい」という子が何人もいたとか。


北里大学病院プレイスペース天井


北里大学病院 小児病棟 病室のサイン


マグネットシートを別の場所に移動してリハビリに

病室の入口にも動物のサインをつけました。動物のキャラクターによって自分の病室に親しみを持って欲しいという思いと、分かり易くすることからデザインしました。同じ動物でマグネットもつくって、元気になってきても病室からでたがらないとき、「あなたの部屋の狸さんをいっしょに探そう」といって探検すると、「どこかな、どこかな」と小さな子は歩いてくれます。


ロールスクリーンで病院の中に動物園を


大型プリンターで布地に出力


北里研究所メディカルセンター病院 ロビーにロールスクリーンの作品を設置


A3サイズの原画をスキャニングし、大学にある大型プリンターで出力したロールスクリーンを吊るしました。2005年、北里研究所メディカルセンター病院で「病院の中の動物園」というテーマで7月から9月まで開園(展示)しました。夏休みなのに入院している子どもたちはどこにも出かけられない。だったら世界にひとつしかない動物園をつくってしまおうと。子どもたちは設置作業をしている時から喜んで大騒ぎしていました。「象がいる!」、「こっちにはキリンがいるよ!」、「ペンギンもいた!」。この様に病院の子ども達に笑顔が生まれる、会話が生まれる、そこに大切な意味があります。


絵を見て語り合っている人たち

この様にアートを介してコミュニケーションが生まれます。アートに触れることで会話と同時に笑顔が生まれる。心のケアに配慮したアートがない空間は精神的なケアが見落とされているのではないでしょうか。有名な作家だからいいわけではない。アートマネジメントは大事で、病院にアートがあることが大事と思います。


これまで約2500人、20箇所くらいの施設でアンケートをとっていますが、約98%が病院にアートが必要、約2%がどちらともいえないと答えています。どちらともいえないという人の理由は、表現内容を検討した上での選択が必須。抽象絵画は悪くないけれど、色のコントラストや表現が激しいものはイライラしてしまう、大きさや飾る場所などにも配慮する必要がある。白い壁とのバランスを考えて設置が必要である、などでした。
治療(cure)を主体としたいままでの現代医学では補えないような、心の痛みをいやす(heal)ことが必要と思います。


医療現場でのアートを持続可能に


ヒーリング・アートを依頼する側、制作する側一緒になって考えて、プレゼンしながら徐々につくりあげてきた話をしました。医療現場でのアート活動を持続可能にする、これが大事だと思います。

これまでやってきた事例の多くは新築・建て替え、改装のときがほとんどです。何を意味しているかというと、新築や建て替えだと大きな建設費を組んでいるので、その建設費の中にアート予算を組み入れることで予算が下りやすくなるというもの。ところが、日常の病院の予算の中ではアートに回す費用など考える余裕が無い。つまりアートは添え物になっているのです。

心のケアが治療と同じように必要だと認識される為には、エビデンスを得ることが重要です。海外では、医療におけるアートの効果のエビデンスについて、かなり研究が進んでいます。
チャルマース工科大学教授のRoger S Ulrich博士が、1984年、Scienceに発表した『View Through Window May Influence Recovery From Surgery(術後の回復に窓からの景色が与える影響)』という論文があります。ペンシルバニア州の病院で胆嚢摘出手術をしたあとに窓から木が見える病室と、窓から人工的な壁しか見えないところで7年間調査したら、自然の見える病室のほうが壁側よりも平均入院期間が短くなり、看護師さんへの苦情件数が少なくなる。驚くべきことに片方の部屋の患者より弱い鎮痛剤が投与された。これは世界的に有名な検証報告ですが、もう30年以上前に発表されたものになります。

海外ではいろんな協会があり、企業や団体と組んでさまざまな芸術と治療効果を考えています。2003年3月、国立芸術基金(NEA)が主催でシンポジウムをして、医療芸術協会が医療、芸術、社会サービス、メディア、企業、政府の40の専門家を集めて医療における文化のプログラムをつくっています(参照『Arts in Healthcare: 2009 State of the Field Report』)。関係者が医療における芸術の利益認識を高め、その価値を示す研究を文書化し、普及させ、医療従事者と管理者を教育、訓練するための適切な方法を開発する目的で開催されています。
アメリカ病院協会、大学、アメリカ芸術協会、いろんな研究所が連携してシンポジウムを行っています。
欧米では財団からの寄付が社会的に定着しています。そしてその金額も大きい。

女子美術大学ではいろんな調査をしました。基本的にはアンケート調査。量的なものでは、自由記述法、評定法、単一回答法、複数回答法、順位法。質的な調査は、自由記述法。エピソード記述を大事にしているのですが、これは医療スタッフから患者のアートに関連した出来事を書いていただくもの。インタビュー調査は、アート設置後に看護師、医師、病院関係者に同時にインタビューしていく。半構造化面接は、ある程度決めた質問をするのですが、発展することがある。すると質問を少しかえたり増やしたり、ある部分をもっと重点的に聞いたりする。これは非常に効果があります。このようにしてデータを集めてきました。

女子美術大学ヒーリング・アートプロジェクトで実施した調査方法

1. アンケート調査

  • 質問紙調査法
  • 量的調査
  • 自由記述法
  • 評定法
  •    
  • 単一回答法
  • 複数回答法
  • 順位法
  •    
  • 質的調査
  • 自由記述法

2. エピソード記述

医師、検査技師、看護師の関与観察による記述

3. インタビュー調査 半構造化面接

アートが設置されていない病院空間と設置後についての印象評価など


これから重要なのは、エビデンスを得ること


アートでのエビデンスを得るために、免疫学との関係は凄く重要です。NHKでも最近よく特集番組を放送していますね。免疫の低下は生体が病気にかかりやすい状態をつくり出し、最近はキラーストレスが取り上げられていますが、ストレスは免疫を抑制し、生体細胞の破壊を誘発することがと分かっています。逆にリラックスすると、体内免疫力を上げたり、心拍数を抑えたり、血圧を抑えたりたりする。アートから得られる精神的な緊張緩和と体内免疫との関係の検証もこれから進めていきたいですね。

笑いから得られる緊張緩和と体内免疫との関係がわかってきています。吉本興業と大阪府立健康科学センターが行った共同研究での報告です。モニターの方に会場に入る前に血液と唾液を提供してもらう。そしてたっぷり笑ったあとに再提供していただく。それを比較すると、唾液中に含まれるストレスホルモンが減少し、それからナチュラルキラー細胞、免疫細胞の数値が上昇している。こういったことがわかってきています。

脳科学、情報工学の研究も大きく進んでいます。脳波計を使った脳波を読み取る測定の進歩がとても注目されています。感情の変化をセンサーで読み取ったり、感性のデータを読み取ったり。ビッグデータも使い方によってはとても有益になると思います。
日本の工学機械は精密でありながら軽量で精度の高い計測が出来る。それを利用しない手はない。昔は、脳波計は大きくて、しかも頭部に多数の線をつけて計測するので、緊張して癒しの計測はとても困難な状況だったのですが、現在は計測機器が非常に軽量化されています。
顔の表情から感情をAIのビッグデータで読み取るなど、アメリカでは犯罪学の分野で顔認証の研究が進んでいます。普通に買い物をするのか犯罪をするのかで、店に入ってきた客の表情が微妙に違うので、センサーで読み取ってレジのところで注意を知らせることなど具体的な研究が始まっています。
人の感情や人間関係などを読み取るには、表情や行動に関するデータとアンケート、心拍数などが総合的に検証されていくのが課題です。これからアートは、医学や看護学、脳科学、情報工学、ロボット工学など複数の分野をまたがって共同研究することによって非常に大きな成果がでると期待されています。  
異分野の連携による研究の広がりの可能性が大いにあります。それが結果的に、アートが免疫効果をあげる、緊張緩和する、さらに元気な気持ちにさせてくれることが分かってくると、そこからエビデンスを得ることが出来ると考えています。
ヒーリング・アートに対してエビデンスが得られる様になれば、病院の年間予算からアート活動の運営資金を得ることにもつながって行くと考えます。そうすると全国の病院でアート計画を統括する部署が生まれ、専門家がいるのが当たり前になり、継続性のあるアート計画やアートの運営の質の向上につながる。そうした希望が見えてきます。


医療看護の教育にアート&ヘルスを


もうひとつ大事なのは、医療・看護教育の中にアート&ヘルス、アート&ケアに関する理論研究や実践教育を普及させること。教育課程でそういうことを習った、リベラルアーツ教育でそういうことを習ったという経験があれば、医療現場での意識が変わってきます。以前、歯科大学で1年生の必修科目としてヒーリング・アートの授業を担当したことがあります。はじめは皆びっくりしていました。「どうして歯科の大学でアートの授業を受けなければならないのですか」と。でも自分たちの医療環境を考えていくのがだんだんおもしろくなってきて、すごくいいアイデアが一杯生まれて来ました。授業アンケートでは、「自分で考えると忘れない。将来開業したときにこの記憶は絶対に残っていると思う」と書いてくれた学生が沢山いました。
医療・看護の教育を受けた学生が卒業して現場に立ったとき、医療環境の大切さやアートとの関わり、アート&ヘルスの役割を理解していると、アートの受け入れ態勢が、これまでとは大きく変わってくると思います。

最後にフローレンス・ナイチンゲールの言葉を紹介いたします。
ナイチンゲールは1860年に「患者の目にうつるものが持っている形の変化や色の楽しさ、それはまさに患者に回復をもたらす現実的な手段」、と書いています。そして、回復期の患者に必要なのは、「病院とは全然似ていないこと、家庭で暮らすような気持にさせる、より自由で元気のつくような環境、小住宅風な建物」と、1863年に提唱しています。

引用)「看護覚え書 ―看護であること 看護でないこと」 F.ナイチンゲール 著  現代社 湯槇ます・薄井坦子・小玉香津子・田村真・小南吉彦 訳

今、徐々に医療環境での心のケアへの理解が深まって来ています。日本の医療現場でArt&Healthに向き合うことが当たり前になってくる、そうした時期が必ず来ると考えています。


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