事例紹介

大原孫三郎の理想 倉敷中央病院の療養環境 ~創立の精神と現在解~

辻野 純徳

有限会社ユー・アール設計相談役

もくじ

本記事は、2019年6月29日に開催された「2019ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 キックオフ講座」のレポートです。辻野先生のお名前の「辻」の字は本来「二点しんにょう(辶)」ですが、表記の都合上「一点しんにょう」で表示しております。ご了承ください

大原孫三郎による倉敷紡績の環境改善



倉敷中央病院にかかわって今年で50年になります。
倉敷中央病院は大正12年に開院しまして、翌年病棟を増し220床計画を全うしました。岡山で最大級の大きい病院となりました。大正14年に医学研究所もつくりました。しかし昭和2年、繊維の不況の関係で倉敷紡績(株)(以下、倉紡)の病院から切り離して独立採算制になり、昭和9年倉敷中央病院財団法人に、平成25年、公益財団法人大原記念倉敷中央医療機構倉敷中央病院となりました。左が、大正13年にすべてできあがったところ。右が現在の姿です。

病院設立の背景として、まず倉紡の話をいたします。
明治39年、工場内で腸チフスが流行。女工7名が死亡しました。そのために、労働条件の改善、賃金の改善を求めて、ストライキがおこった。責任をとって大原孝四郎が退いて、孫三郎が社長に就任する。孫三郎は、既に始めていた倉紡の改革をすすめます。生活環境、労働環境の改善をやり、工員の健康を確保してその結果、会社への利益の還元をめざしました。

明治39年、まず孫三郎は飯場制度を廃止します。今でいう派遣社員です。親方が工員を連れてきて、住まわせて派遣して、飯を食わすかわりにピンはねする、そういう商売です。この飯場制度を身の危険を感じながらも廃止して、工員を直接雇いました。そして、工員住宅、女子宿舎も建設した。それまでは紡績工場は2交代制度、12時間働いたら帰ってきて12時間寝て、また12時間働く。だから布団ひとつでいい。そういう生活です。
女子宿舎ができたときは、3畳に2人になりました。それまでの4倍以上の居住面積になるわけです。さらに大正8年には家族的分散宿舎をつくりました。それまでの2階建ての大部屋から、女工18人を10畳2室と8畳に住まわせ、寮母2人が付き食堂もつくって、テニスコートまでありました。同時に女性たちに家庭教育を受けさせました。当時としてはすばらしいことだと思います。おいしいものも食べさせ、ピンハネのない安い物品販売所も整備しました。

当時の紡績工場は綿ぼこりだらけです。大正7年に工場内の生理学的調査をしたうえで、働く環境の改善もしました。
大正10年、倉敷労働科学研究所を設立します。ところが、昭和10年近くなると労働とか社会というだけで「アカ」、さらに紡績不況もあって、昭和11年この組織を切り離し東京に移転、現在は大原記念労働科学研究所として独立、看護婦の連続夜勤問題など、労働環境の研究にあたっています。

大正4年に工員の健康を守るため倉紡共済組合の設立。さらに、働ける健康を守る工場付属の診療所の中央施設として病院の設立を企画します。


大原孫三郎の地域貢献


明治35年元旦、孫三郎は日記に、「余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず、世界の為である」と書き記します。
明治40年には、小作俵米の品評会をはじめますが、実はこれが岡山のマスカットや白桃の改良につながります。戦後農地解放にともない、岡山大学に移管しました。
大正8年、さつき会設立。女性の社会進出につながる動きとなります。文化学院などで有名な西村伊作設計の保育所を開設。昭和5年に大原美術館設立。昭和10年、日本民芸館設立基金の提供。社内では「労働理想主義」と、社外からは「運命共同体」といわれます。

その背景には、岡山孤児院院長、石井十次との交流がありました。彼は孤児の生活と満腹主義、そして家族的に育てる施設をつくり、また孤児を生む貧困をなくすために、働ける親と健康のため労働者病院を、働ける時間をつくりたいと託児所を、働く意思を向上させるために夜学校までつくりました。孤児の独立をめざして学校も建てます。
大原孫三郎は石井十次が亡くなると、大阪の事業所を石井記念愛染園として、託児所や夜学校、診療所をつくります。ここは現在愛染橋病院として253床と、大阪では幅広く福祉施設を運営しています。さらに、貧困を防ぐ道として、大正7年救済事業研究室をつくり、8年大原社会問題研究所に格上げされましたが、労働科学研究所と同様に昭和11年東京に独立移転。戦後法政大学に移され、現在も続いています。

大原家は人材育成に力を入れ奨学生に援助していました。大原の絵を集めた児島虎次郎、それから、「天皇の建築家」薬師寺主計、大原さんの主治医で趣味の友人、三橋玉見。武内潔眞は倉紡電気技師で、大原美術館初代館長。倉敷中央病院の建築事業を責任もってやりました。それから最近判ったのですが「めざし」で有名な土光敏夫さんなど、その全ては判っていません

明治35年から大正14年にかけて、76回倉敷日曜講演会を行っています。講師は、徳富猪一郎(蘇峰)、新渡戸稲造、京大総長の荒木寅三郎、早稲田創始者の大隈重信、安部磯雄などが講師をつとめました。
さらに、倉紡職工教育部をつくって、工員の中学教育と英語教育までやっています。精思小学校男子部(現倉敷商業高校)をつくって、女子のためには実業補習学校をつくり、家庭教育を学ばせています。


治療本位の病院、倉敷中央病院の設立まで



大原孫三郎は、大正初期のスペイン風邪流行で医療にかからず亡くなる従業員や市民をたくさん見まして、倉敷紡績の労働者とその家族のため実費診療を行う病院を企てますが、開業医を圧迫すると県医師会の反対にあいます。そこで、従業員とその家族および市民のための一般病院をつくって公開した。それが倉紡中央病院です。
従業員は2割負担。つまりここで保険制度の元をつくったわけです。
基本方針は、 岡山医大病院に劣らない病院、そして研究本位でなくて、治療本位の病院をつくりたいということでした。
医療施設としては、大正9年にできた慶応大学病院に学び、理念はヴォーリズが設計運営したサナトリウム(近江療養院、現ヴォーリズ記念病院)に学びました。サナトリウムで参考にしたのは、まず食堂、食べるものがおいしい。

設計は、倉紡の建築課の隅田京太郎ですが、後に課長として上に武内潔眞が加わり指揮をとり、そこに大原が注文をつけました。武内潔眞の日記によると、孫三郎が自宅をみるような目で病院を批判するとなげいています。たとえば、建具の面取りの問題。扉の開閉の問題、そんな非常に細かいところまで。武内さんは「設計者は大原孫三郎である」といっておられました。


「患者のための看護師」「病院の中に楽園」



さきほど申しましたように、運用方針は、研究本位でなく治療本位とすること。
それから優秀な医師を集めました。さらに、医師の助手でなくて患者のための真の看護婦の育成など。当時そんなことを言う人はいないですね。
そして心付け、贈り物などはいっさい禁止して、患者にいっさい「冗費を使わせぬこと」。
診療費は医師会の規定どおり。入院費は実費またはそれ以下。倉紡の職員は前にいったように、2割負担でいい。そして、病室に「階級は一切設けぬ」など驚くべきことです。

これはナイチンゲール型病棟(ナイチンゲールが提唱した病棟スタイル)大部屋ですが、しきりが設けてあり、男女分けになっている。壁に絵が飾ってある。このころに絵がかかった病室が一般であったかどうか。各翼に防火壁、便所に至るまで全館暖房(原則床暖房)。冷房はないですが、床下には開閉できる大換気口があって、暑さを防ぐ。自炊室は設けず中央炊事場でおいしい食事をだす。

パビリオン型の診療・外来棟が延びる間に、外来・入院患者用それぞれの娯楽室(温室)があり内装を児島虎次郎が設計、農業技師の山元佳誠が管理をしています。パリにいた児島虎次郎が帰ってくるときに、大原の命で西洋絵画の複製、約70枚を選んで、開院前に自ら飾り付けしています。



大正12年6月2日の倉紡中央病院についての新聞記事には、「病院の芸術化」とか「病院の中に楽園」という言葉があります。
左は、児島虎次郎がかいたスケッチ。最初はこんな温室で、常夏の部屋をつくろうとしていました。


「ホテルのノウハウで病院づくりを」


昭和38年、創立40周年にあたって、2代目理事長の大原總一郎は、「面目を一新して10年後再開したい」ということでした。このころ、私は同じく大原が理事長の石井記念愛染園・愛染橋病院の建替えを担当しました。
大原からの指示は、入ったら治るような病院をつくれ。それから、寄付された絵画などは受け取るな。義理で飾ることはしたくない。絵でない文様の舩木研児の絵付タイルを使いたいということでした。
大原總一郎は、昭和15年に日本民藝館倉敷支部の建設企画をし(これは昭和23年に倉敷民芸館になりました)、その後大原美術館の理事長、亡くなるまで、日本民藝協会の会長をつとめます。

昭和43年、大原總一郎が亡くなります。その遺命で倉敷中央病院の「面目一新計画」に私が勤めていた浦辺建築事務所が設計することになり、前に愛染橋病院の建て替えをやったことから、私が担当になりました。しかし大規模病院の経験はなく、ご相談した松本啓俊氏(厚生省病院管理研究所)から「資料はすべて提供するから、あなたたちのもっているホテルのノウハウででの病院づくりを」と勧められました。それまでに、倉敷国際ホテルや千里阪急ホテル、西鉄グランドホテルなど3つのホテルを経験していました。病院からの指示は、病床数の減少は避けること、仮設はできるだけ避けること、工事が医療を妨げないこと、でした。


成長と変化に対応する病院に



MASTER PLAN作成に際して心掛けたのは、成長と変化に対応すること。患者の憩いの温室と瓦屋根の再現で、「緑の丘の赤い屋根」をイメージしました。しかし「瓦屋根はイメージが古い」と病院から反対がありました。それを上司の浦辺が説得、できあがったものは市民が評価してくれました。
南側に屋上があるので、日の反射を防ぐために芝生にしたいといったら、事務所内から防水によくないと猛反対にあいました。しかし、カリフォルニアのオークランド美術館を見てきて、こういう事例があると、所内で報告、やっと許してもらえました。結果は防水層に温度変化が少なく寿命を延ばすことができました。唱にある「緑の丘の赤い屋根」ができました。
建築に対する大原の方針としては、玄関は慎ましく。玄関を大きくすると威圧感があっていやだと。それと、飾る絵画は直接情感に訴え好き嫌いがあり、型染絵や版画など工芸は他力の手が入るから受入れやすい。大原ゆかりの工芸家の協力を得て、絵でない文様を使いました。「面目一新」の改築は昭和44年設計着手、48年着工、56年に竣工しました。

現在の倉敷中央病院は、大原謙一郎を理事長として、病床数 1166床。平均在院日数は、現在は12日くらいのようです。職員数は3226人、うち医師501人。救急患者数が65,286人。岡山県一多いです。延べ床面積 約15万平米、手術件数12,813件/年 。JCI認定病院、DPC症例数・診断群分類出現数 全国最多と、重症のものも幅広くみている病院になっています。
同業者が選ぶ「よい病院ランキング」(『Newsweek』2019年3月)で1位が東大、2位が聖路加、3位が倉敷中央病院というので驚いたのですが、建築がいいからというわけではなく、医者が評価した病院ということで、少しがっかりしました(笑)。

現在、倉敷中央病院の1階は約3万平米あります。とてつもなく広いので、ここに平城京のようにタテヨコの幹線道路をつくり、原則として幹線道路に面する部屋はなく、そこから直角に支線を延ばしそれに沿って各室を作りました。
実は当初の計画は資金の関係などで1年のびました。当初は入れる予定のなかったCTを2台入れることになったり、増築支線一杯になったところもあります。
つくったころは平均在院日数40日です。ですから当初の設計では、病院内のどこでどんな生活をするかを考えていました。ところが、どんどん日数は少なくなり、いまは約12日。リハビリテーションは原則病棟で終わりです。


現在の倉敷中央病院 院内散歩


病院の中をご案内します。





玄関はつつましく。中にはいると両側に芹沢銈介原画のステンドグラスがあります。



外来幹線廊下には、マドリードのプラド美術館にある公式ガイドブックの表紙にもなっているヴェラスケスの「王女マルガリータ」複製画があります。



外来棟2階にあがって、山根和紙という、洋紙に和紙を蒸着したものです。「たくみ」工芸店をおこした吉田璋也という人が耳鼻科の医者としてこの病院に2年間勤務していた縁で、彼が指導したゆかりある新作和紙を使いました。



外来増築棟2階にいきますと、小児科の外来があります。去年の12月にNHK日曜美術館「うれしくなくちゃ生まれない」の94歳の柚木沙弥郎の作です。大原さんに恩があるだろうと頼んだのですが、なかなかつくらない。それで現場につれてきたら、1枚つくらせるつもりが一面全面このようにつくってくれました。彼は芹沢銈介の弟子です。



3階には、大原記念ホール。東京の御茶ノ水にあるニコライ堂をイメージしてといわれてつくったものです。



外来棟1階にもどって左は温室西通り。グリンベルトの中には公共のものしかつくらないことになって、右の写真は患者図書室になっています。



大原が京都の北白川の自宅用に計画したスケッチが残っていたので、舩木につくらせたものです。焼きが甘く水を含むと凍って割れるので屋根をつけたら、お墓のようだとお叱りを受けました。
敷石には、日本民芸館の西館の改修で取り外した屋根瓦を敷きました。日本民芸館の建設資金は大原が寄付したものです。というように、ゆかりのあるものを使っています。このゲーテの詩に「庭の千草」の節をつけて大原は子供たちに歌わせていました。



左の壁のブラケット照明。倉敷で生まれた倉敷ガラスを傘に使いました。右側が外来です。正面奥に大正12年、倉敷最古のエレベーターも電話ボックスにつくりかえて残しています。



外来棟と中央検査棟の間のグリンベルトにある温室は以前あったものを2倍の大きさにつくり直したもの。ここにある照明は、元々は旧手術室の投光器です。



中央診療棟と最新の第3棟間のグリンベルトにあるもう一つの温室、フラワーガーデンです。さきほどの温室は常夏ですが、ここは四季を感じるところにと、モネの睡蓮です。夏しか咲きませんが。ランドマークになっています。外にケヤキが一本植わっています。



その2階は手術部。手術室は20ありますが、病室と同じように木目をつかった落ち着いたデザインにしています。



第3棟の屋上庭園の石のベンチは和泉正敏さんというイサムノグチの片腕だった人にお願いしました。外周はフェンスがいやなので、屋根に手掛りのない回廊をつくりました。



季節を感じるグリンベルトの北端セントラルパーラーです。中庭に桜を植えると虫がつくと大反対を受けましたが、いまは大歓迎です。実は楓も植えましたが、常緑の楓になってしまいました。温度が下がらないので。



北の幹線廊下沿いの時空回廊IDEAには、病院の歴史が展示してあります。丸窓は、大正12年の旧病院の休憩室の窓です。



エレベーターホールです。昭和59年に改修したとき、日本ではじめて一般用と医療用のエレベーターを分けて設置しました。これは病院建築の先生方から猛反対を受けました。今はあたりまえです。赤いポストはランドマークになっています。



この役員会議室のテーブルは、古い病院の柱でした。えらい人たちにも昔の病院を思い出してもらおうとつくりました。
ご清聴ありがとうございました。


辻野純徳×鈴木賢一「患者のことを第一に、大原孫三郎の精神」


鈴木
歴史がすごいですね。公立の病院とちがって、大原という巨人、いろんなことに思いをこめた個人が創始されたということが、大きな柱になっているような気がします。途中印象的だと思ったのは、赤い屋根を残すにあたって、市民から賛成の声があがったということです。

辻野
昭和40年代は入院から退院まで長く病院生活していた。そして病院といえばここしかなかったので、市民にとっては重要な病院だった。だから、市民が賛成したらその後文句はいえなかったのですね。

鈴木
お医者さんとしては、新しい機器を入れるとか、最新の設備がある新しい病院をつくろうという気持ちがあったのでしょうが、たとえば温室など、古い病院にあったアイテムを辻野さんはたくさん使われていますね。手術室の照明まで。

辻野
そのころ、アイビースクエアも手がけていましたが、実はアイビースクエアも倉紡の古い工場、古い材料を使いながら改装した。そういう経験もあってのことだと思います。

鈴木
倉敷には美観地区というとても素敵な街があって、その中心部にアイビースクエアというレンガの建造物がある。当時としては古いものをリニューアルするというやり方は、日本にはあまりなかった試みだと思いますが、それを経験されているということですね。病院をホテルのようにつくるという発想は、設計者としてはどう受け止められたのでしょうか?

辻野
倉敷国際ホテルを設計したときに支配人から「Guest is always right」とお客さんの方を見て設計しなさい、と教えられました。またロサンゼルスのWeiss Memorial病院を見学に行ったときは、「Patient is always right」という言葉がかかっていました。お客さん、患者さんの言うことが一番正しいとしてスタートしているんですね。もちろん病院には清潔管理などの視点も必要で、両方必要ですけどね。患者のことを第一に考えるというのは大原孫三郎の精神でしたから、それを前面におしだしてやりました。

鈴木
設計者の関わりとしては、非常に珍しいといいますか、通常ですと設計して竣工すれば関係がなくなりますが、先生の場合は、長くそこにおられますので、お抱えの建築家のようなかたちで、職員が変わろうが、ずっと見続けることができる唯一の人間だということですね。病院の中にかなりの数のアートや工芸品がありましが、そういったものは先生がセレクトされているのですね?

辻野
だいたいご相談いただいて私が目を通しています。3000人もいる病院のなかで、選択の理念をきちっと持っていないとまとまりがつきません。非常に難しいのですが、できるだけ親しみやすいものを、と思っています。体の弱った人がその絵をどうみるかということがまだ研究されていないのです。また病院の理念を発揮させていくことも大事です。
私も入院するときは自分の食器を持ちこむのですけども、本当は患者さんも、自分の生活スタイルにしたいんですね。ヨーロッパの病院に行くと壁に家族の写真を飾ってあったりしますが、日本の病院ではそれも許されないですよね。

鈴木
もうひとつ、非常に印象的なのは、緑の扱い方。中から外をみて四季を感じられると何度もおっしゃいましたが、緑はアートではないですが、アート的な発想をすれば、建築家がやれるいちばん大事なところという気がします。病院によっては、生花はもちこめないということも聞いたりしますが、一輪の花があるといいなあ。そういうことも含めて緑があるといいですね。

辻野
最近、事務長から屋上の緑がすごく評判がいいと聞きました。今は雑草が生えているんですけどね、温度変化が少なくなるということで防水にもいいようです。
また、倉敷中央病院では外来患者の滞在時間が非常に長いという調査報告がありました。よくよく調べると診察をうけたあと、雰囲気を楽しんでいかれる方も多いことが理由と判りました。

鈴木
やはり従来の病院のイメージと違いますね。本日はありがとうございました。