2020ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 第6回

メンタルヘルスケアにおけるアートの活用と可能性

全国精神保健福祉連絡協議会 会長、川崎市精神保健福祉センター 所長
竹島 正

もくじ

本記事は、2020年8月12日オンラインで開催された「2020ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 第6回」のレポートです。


今日は「メンタルヘルスケアにおけるアートの活用と可能性」という話ですけど、心理療法の視点からアートの話をするつもりはないことを始めにお伝えしておきます。
構成は大きく二つで、一つは地域共生社会、危機を経験した人たちの発信と共創です。共創、つまり共に創る、コ・クリエーションですね。それからその背景になる理論として、ポピュレーションアプローチとハイリスクアプローチの二分を超えるという話です。


健康とは、身体的にも精神的にも社会的にも満たされた状態にあること


では、前半の地域共生社会危機を経験した人たちの発信と共創の話からしたいと思います。
まずは健康の定義を紹介します。


WHO(世界保健機関)の健康の定義


  • WHO(世界保健機関)は、その憲章の前文の中で「健康」を次のように定義しています。
  • 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、身体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう(日本WHO協会訳を一部改変)。
  • Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.(公益社団法人日本WHO協会 https://www.japan-who.or.jp/

WHOによる健康の定義があって、その中で、身体的、精神的、そして社会的、という3つの要素をあげていることに注意してください。
実はこのWHOの健康の定義は1998年に改定が議論されました。


WHO健康の定義の改定案(1998)


  • WHOの健康定義については、WHO総会における審議には至らなかったものの、1998年に新しい提案がなされたことがあります。
  • 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、身体的にも、精神的にも、スピリチュアルにも、そして社会的にも、すべてが満たされた動的な状態にあることをいう。
  • Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

この定義はWHOの総会における審議には至らなかったのですけど、「スピリチュアル」と「動的な状態」という言葉が入ったところが一つの特徴です。
このスピリチュアルをどう解釈するか。「霊的な」と訳す場合もありますが、英英辞典にはrelating to deep feelings and beliefs, especially religious beliefs と書いてあります。信仰に関わることとも読めるのですが、私はスピリチュアルを人が生きている土台にあるもの、すなわちその人、家族、社会の背負ってきた歴史や文化と捉えることができるんじゃないかと考えています。
私の活動の中で、宗教者の方々とお付き合いすることがあります。宗教者の方々の時間軸はものすごく長く、100年や200年を超えて何代にも渡るという世界観を持っています。スピリチュアルというのはそのように時間軸の長いものです。そこには苦しい時間も含まれているわけですが、そのことをわかったうえで健康の定義にスピリチュアルを入れようとしたと捉え、次にWHOの精神保健の定義を見ようと思います。


WHO精神保健(精神的に健康な状態)の定義


  • 精神保健とは、人が自身の能力を発揮し、日常生活におけるストレスに対処でき、生産的に豊かに働くことができ、かつ地域に貢献できるような満たされた状態である。
  • Mental health is a state of well-being in which an individual realizes his or her own abilities, can cope with the normal stresses of life, can work productively and is able to make a contribution to his or her community.

上記の定義はハッピーな、つまらない定義のようにも見えますが、「日々是好日」に近いですよね。今の一瞬にちゃんと力を集中すると捉えられるかもしれない。
その上でこの「精神的に健康な状態」を先の健康の定義にならって言い替えるならば、精神疾患に罹患しているかどうかではなく、その人本来のありようが尊重され発揮されることである。そして健康とは、ある個人のうちにある、精神・身体・社会的健康に加えて、その人につながる家族や社会の背負ってきた歴史を背景にした動的な状態である、と言うこともできるんじゃないでしょうか。
ちなみに「地域共生社会」というのは、けっこう前から使われてきた言葉ですが、子供・高齢者・障害者など全ての人々から地域、暮らし、生きがいを共に創り高めることができる社会のことを指します。支え手側と受け手側に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が、それぞれ自分らしく活躍できる地域コミュニティを形成するということです。

これは私の精神保健活動の定義です。この活動に対して、心の健康問題というかたちで人生の危機を経験した人たちの活動が大きなパートナーになるというのが基本的な考え方です。


精神保健活動の定義(竹島)


  • 筆者は、精神保健活動を、「人間とその行動の理解を踏まえ、『共に生きる社会』の実現という理念のもと、社会におこるさまざまな問題の実態と関連する要因を明らかにしつつ、社会との協働によってその解決を図り、社会をよりよいものにしていく活動と定義した。
  • この活動には、こころの健康問題というかたちで人生の危機を経験した人たちの活動が大きなパートナーになる。

(竹島正:精神保健はどのように定義されてきたか.公衆衛生.74(1).63-66.2010)

こころの健康問題を経験した人の自己表現活動


ここから、アートに関わる活動や作品を少し紹介していきます。私が会長を務める全国精神保健福祉連絡協議会は小さな団体ですが、各都道府県にある精神保健福祉協会の横連絡をするための組織として1963年頃に作られました。
その協議会で、日本財団の助成を受けて、2017年に川崎市で「かく、みる、つなぐーこころの軌跡をたどる」展を開催しました。この展覧会はこころの健康問題を経験した人たちのアートを中心に据えて、イベントや交流を行い、こころの健康、ひとの繋がり、社会のあり方などを考えようという目的で開催されました。展示の中心はこころの健康問題を経験した人たちが生活の中で制作した作品で、作者が人生の困難とどのように向き合って生きてきたかを、それぞれの表現が示しています。会場には、作者と観覧者の間に、生きる喜びと困難を共にする共感があったと考えています。



これが展覧の写真ですけど、正面にあるのが「モナリザ分割画」という作品です。東京の平川病院<造形教室>の作品で、アイキャッチに置かせていただきました。左側は一人の作家の作品で1970年代から80年代に制作されたものです。



左の画像の上にあるのは、1人の患者さんの顔を、20年ぐらいにわたって描き続けたある絵描きさんのシリーズ作品です。右の画像の奥は、鹿児島のクロマニンゲン展に出展している作家の作品です。日本財団の助成がありましたので、作品の高さを揃えるなど、きれいに展示ができました。


表現の体験を通し、潜在する個性や可能性を引き出し、自らを支えていく



先ほど少し話をしました<造形教室>です。東京では有名な活動で、安彦講平さんが主宰されていて、1968年の東京足立病院から始まり、他の病院にも開かれ、継承・発展されてきました。
<造形教室>は、いわゆる「教育」や「治療」のための描画ではありません。上から与えられ、課せられ、外から評価、解釈されるような道具、手段としての描画ではない。それぞれが自由に描き、身をもった自己表現の体験を通して、もう1人の自分と出会い、潜在する個性や可能性を引き出し、自らを癒し、支えていくような営みの場であると。そういう見方であります。
この画像は、私が行ったときに撮らせていただいた写真です。<造形教室>はアトリエとして存在するので片付けなくてもいいのが強みで、場の連続性があることはとても大きいですね。



これは安彦講平さんが東京の丘の上病院でかつて活動していたときの「丘の上祭」の写真です。唇はマリリン・モンローで、これを越えて中に入ったのだそうです。



これは「モナリザ分割画」です。安彦講平さんに了解を得て、私どもが翻訳をした冊子の表紙に使わせていただきました。「モナリザ分割画」は1枚だけではありません。古典的名画であるモナリザのデッサンを分割して、それぞれのパートを自分のオリジナルの作品として仕上げ、それを再度「モナリザ」として1枚にまとめます。すなわち個々の創造的な取り組みによって、新たな「モナリザ」全体像が生まれる、という活動です。



https://ameblo.jp/cromaningen/
次にクロマニンゲン展。これもたいへん面白いです。坂井貞夫さんという風刺漫画をニューヨーク・タイムズに描かれたりしている方が、精神障害の方の参加する絵画教室に関わりを持たれて、彼らのアートの活動からクロマニンゲン展というものを考えたんですね。
第1回クロマニンゲン展の案内を紹介します。


“突然変異の芸術家たち「クロマニンゲン」。約4万年前、前人類は突然絵を描きはじめた。クロマニヨンと名付けられた彼らは、明晰な頭脳と豊かな妄想力によって興味深い芸術を生み出した。それは人々の心に大きな影響をもたらし、文明へと発展し劇的な進化を遂げた。現代社会はその人類の英知の集大成である。しかし、人類は今、混沌の時代に突入したようだ。まるで矛盾した設計によってつくられた絶叫マシンに乗せられ、悲鳴と恍惚の叫びを上げているように見える。こうした現代の多次元的な衝撃波によって、芸術家たちに新たな異変が起きているのではないだろうか。ここに突然変異の天才芸術家たちを「クロマニンゲン」と名付け、そのユニークな作品展を開催し未来の始まりを見たいと思う。”

クロマニンゲン展のオフィシャルサイトをぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/cromaningen/


単なる作品ではなく、その人の生き方がともにある表現


それで、地域共生社会/価値共創/アートについて、私の考えの一端をお話します。これは品質管理学会の研究会で学んだものです。


“価値共創(コ・クリエイション)とは、企業が、さまざまな関与者と協働して、新たな価値を創造することであり、消費者の価値観と消費行動が多様化してきたことや、インターネットの進化とソーシャルメディアの普及を背景にしている。”

精神保健福祉の領域の活動も、実は社会の動きとつながっているということです。
そして地域共生社会もまた価値共創と思うのです。そのパートナーとして、困難を経験してきた人たちのアートがあるんじゃないだろうかと。この場合に間違えちゃいけないのは、そのアートは単に作品ではありません。私は、アウトサイダーアートやアール・ブリュットって言い方はあまり好きではないです。なぜかというと、見方によっては単なる美術至上主義、市場優先になりうる。つまり売れることに、美術としての価値を置いてしまうリスクがあるからです。私が大切にしたいのは、上手とか下手ということを超えた価値です。その人の生き方みたいなものが一緒にある作品が貴重ではないかというのが私の基本姿勢です。


選択的予防介入で、寄り添う意志を繰り返し伝える


ここからは話題の後半、ポピュレーションアプローチとハイリスクアプローチの二分を超える、という話をします。
まず公衆衛生として、みんなの健康を社会として良くしていくためのアプローチ、戦略がありまして、その中で問題を抱えたハイリスク者だけに介入する「ハイリスク戦略」と、リスクを持たない人を含めた集団全体に働きかけてリスクを下げる「ポピュレーション戦略」があります。例えば、高血圧予防のためにはこういう食生活をしましょうみたいなアプローチと、もう血圧が高くて病院にかかっている人は別のアプローチになるということです。あくまで、理念モデルで語られることですが。

ところが2014年に出たWHOの世界自殺レポートは、公衆衛生の理論の発展を踏まえて、この二つのアプローチ、すなわち「全体的予防介入」と「個別的予防介入」の間に「選択的予防介入戦略」を置いています。

私はこの「選択的予防介入戦略」がとても大事と考えています。自殺のリスクの高い人であっても、支援を受け入れる人もあれば、受け入れない人もあるわけです。また、支援を受け入れるときもあれば、受け入れないときもあるわけです。その人たちに対して、機会のあるときに、私はあなたに役に立ちたい、つながり続けたい、すなわち寄り添う意志を繰り返し伝えることは大切であり、これが「選択的予防介入戦略」ではないかと思うのです。そして、こころの健康問題というかたちで人生の危機を経験した人たちの人生と作品は、「選択的予防介入戦略」を支える重要なパートナーになるのです。


作品展示では、複数の側面を意識する


ここから先は、人生の危機を経験してきた人たちとその作品をご紹介します。



これは文科省の研究費で行った研究で、こころの健康問題などのかたちで人生の危機を経験した方にインタビューをして、その人の短い紹介文と作品を冊子にしたものです。紹介文は案をつくって本人に見てもらって整理することを繰り返してまとめました。いくつかのタイトルを紹介します。


  • 私の絵はわいてくる、中から
  • そのままでいな、そこにいていい
  • 絵を見てもらった人に、楽しんでもらえるのが気持ちよい
  • 絵を描いていると夢中になるでしょう、その感じがいいですよね
  • 自分を表現すること、自分の世界を持つこと
  • 障害を持つことになって、時間を与えられた
  • エネルギー使ってね。かつお節のだしが抜けたようにボロボロになって入院して。元気になって退院して、また頑張りすぎちゃって

この冊子を作るときに、オーストラリアのメルボルンにあるダックスセンターという施設が整備した作品展示をするときのガイドラインを翻訳し、それを意識しながら冊子をつくりました。


ダックスセンターの作品展示のガイドライン


  1. 精神疾患を経験した人々の作品には複数の側面がある:複数の側面とは芸術的,心理学的,社会学的,医学的,歴史的,倫理的な側面などである。
  2. 作者を尊重する:作品展示方法についての意思決定を行う際には,作者の意図,その作品が制作された背景を考慮し,作者の意向の明確化を図る。
  3. 制作者から展示する同意が得られなかった作品の展示:これらを展示するのは,代替可能な作品が存在しない場合に限定し,作品を展示することにより得られる公益が,制作者へ及ぼしうる潜在的な損害よりも,明確に上回っていなければならない。
  4. 観覧者を尊重する:観覧者に,作品との関わり方,および重視する側面を選ぶ自由を与える。
  5. 信頼の構築に努める:展覧会の準備期間を通じて,制作者と定期的に協議することを検討する。観覧者に,展示団体の法的・倫理的責任について情報を提供する。展覧会は営利を目的とすべきではなく,またスポンサーシップによって展覧会の目的に妥協があると受け取られてはならない。

(竹島正:革新的な啓発活動を進めるダックスセンター.心と社会.146.94-99.2011)

4にある「観覧者に、作品との関わり方、より重視する側面を選ぶ自由を与える」について、ダックスセンターのオイゲン・コウ館長が言っていたのは、たとえば性的虐待を受けた人たちの作品を展示するときに、トラウマの経験がある人が見ると強い衝撃を受けるから、最初に「あなたは見る権利もあれば、見ないで帰ることも自由だ」ということを明記するということです。彼らの取り組んでいる啓発の考え方は、例えば、自殺についてということになると、みんな口にすることはできないけれど、作者や作品にあらわれる「うつ病」や「死にたい」という気持ちについては、展覧展で見た作品の話として口にすることができる。そういうところで啓発が進んでいく、アートが役に立つんだ、という話ですね。

先ほどの冊子から1人だけご紹介いたします。


「障害を持つことになって、時間を与えられた。 橋爪栄」



ここで大事なのが、最後に信仰が生活の支えと書いてあって、芸術はちょっと立場が違うのですね。これが彼の作品です。



先の文章にあったアルミホイルを丸めて広げるというのは、この線や色の塗り方の違いに表れているのだと思います。それからこういうデッサンも彼はたくさん描いていて、これは若いときの自画像です。
橋爪さんとはだいたい月に2回くらいの手紙のやり取りがありますが、彼の作品を大学の講義で使っていいかと尋ねて了解をもらったときの手紙を紹介します。
(以下、手紙より一部抜粋)


“どのような講義をなさるのかも気になりますが、知りたいと思いますが全面的におまかせしたいと思います。思う存分大活躍してください。これは僕だけではなく、たぶん僕たち、障がい者の利益につながるとも考えます。そのほんの一部でしょうが、僕の作品を利用していただき夢のようです。”
“僕の絵画はあるいは、美術は古いものです。でも、生きている魚に新しいもの古いものもありますか。古いというのは魚屋さんに売っている魚の事ですと、教えてくれた人がいます。これからも楽しく展開していくことを僕は望んでいます。”
“僕は想像力が病的ですが、それだけでは十分満足しています。大げさな事を言うと、時空を超えて僕の作品が、生きているという感じです。”

トラウマの世代間伝達と個人のストーリー



これはダックスセンターの館長であったオイゲン・コウ先生と今取り組んでいることです。彼は長く、日本における第二次世界大戦のトラウマを話題にしていました。日本は第二次世界大戦の被害者であり加害者であるという両側面を持つ。そして日本人は戦争について触れることを避ける傾向があるという奥の深い問題があります。今、日本における第二次世界大戦のトラウマというワークショップをやっていて、トラウマの世代間伝達がテーマになっています。どういうわけかトラウマは世代を超えて伝達されます。
コウ先生は、シャワーを浴びるのを恐れて育った女性の話を講演で紹介しました。


”蛇口を回すのを彼女は怖がりました。彼女は、家族がホロコーストによってガス室で殺されたという秘密を40年後に母親が話すまで、その理由がわかりませんでした。蛇口を回すことは、彼女に有毒ガスが出ることを無意識に思い起こさせたのです。“


これは私が仲間と一緒に翻訳した図書です。オーストラリアの精神科医のシドニー・ブロックの著書で、一般向けに書かれた面白い本です。何が面白いかというと、例えば「子どもと青年期」だとか「女性」という章があります。日本の精神保健の本にはあまりない章です。「自殺と故意の自傷」の章では尊厳死や自殺幇助のことも書かれています。この本には多くの事例が掲載されていますが、両親の離婚だと貧困だとか、よくある出来事がふつうにストーリーとして取り上げられている点も興味深いです。


作品と作者紹介、その人でしかできない表現


いくつか作品を紹介します。魔可多宮ナツさんはクロマニンゲン展に作品を出されている方です。時計軸という作品などいくつか作品があります。作品に添えた、ナツさんの紹介があります。



“幼少期から絵を描きはじめました。年に4・5回各地で展覧会をしています。魔可の描く絵は脳の中に出現する色や形をキャンバスに描いて行く事をしています。夢の中で見る模様などを描き表します。頭の中の部分で色や形などが構成されていきます。夢や物語を考えるのが好きです。例えばアニメが大好きなのですが、その現実か夢かわからなくなる過程に生きています。それらは頭で散りばめられ見えるのか、見えていないのかわからないけれど絵にすると現実と向き合えます。なのでこれからもたくさんの絵を見てほしいです。頭の中の想像を超えていきたいです。”


山本二昭さんの作品です。一番左が「青銅の涙」という作品で、彼の代表作のひとつだと思います。彼は同じタイトルで映画も作っています。
右にある彼の書いた文章も紹介します。


“青銅の涙のタイトル画を描いたのは今から38年前の38歳の頃だった。当時兵庫県に住んでいて、印刷会社で社宅を借りて学校生活をしていた。映画は出来上がっておらず貧弱な機材を嘆いた一文が、投稿誌に載った。懐かしい時代である。…”

部屋にある作品も少し紹介しますが、ついでに私の作品「ふたりでひとり」です。持論ですが、下手じゃなきゃ描けない絵があるんです。


「自分は脳の病気だけれど心は健康である」



これは高知にいたときに作った正方形の4枚組のポスターのひとつです。自分の部屋に貼ってもらえるようにと考えたものです。このポスターには「広い世界へ」と文字があります。「西風の会」の堀俊明さんに書いたもらった詩を少しアレンジしたものを掲載させてもらいました。
“精神障害者になって世間の目が変わりました。何か恐ろしいものを見るように私を避けて通ります。私も家族も途方にくれているのに。それでも自分らしく生きていこうと決めたら少し自由になりました。障害を気にしすぎて自分の心まで狭くすることはなかったのです。そうです私は物なんかじゃない。あなたと同じ人間です。”
堀さんの書いてくれたメッセージです。堀さんは「障害を気にしすぎ」のところを最初、「世間を気にしすぎ」と書いていたんですけど、いや、自分が気にしているのは世間ではなく障害なんだと、書き換えました。それから彼は、自分は精神障害で脳の病気だけれど心が健康であると、繰り返し言っていました。

このような作品や、行動や意識が、建築や空間などにつながると面白いなと思います。ただそれをするためにはやっぱり絶えずキュレーターのような人たちが介在して、作品をうまく展示するということが必要だろうと思います。
ということで、起承転結のはっきりしない話だったかもしれませんが、建物や空間が癒しをもたらすという側面もあるけれど、そこに人間という側面を見ていくことによって、また違った面が出てくるのではないかと思ったりします。


質疑応答 アートセラピーやアール・ブリュットとの違い


「アートセラピーとの違いをお聞きしたいです」
治療としてやりますと説明してやるのがアートセラピーだと思うんですね。そこでは治療者との関係の中で、作品は誕生してくるわけです。そこが違いでしょうか。私の今日紹介したのは、治療的効果というよりも、彼らの生き方や作品に対しての肯定であることを大切にすることであると思います。

「アートを介することで人と対等に語り合う状況が出来るように思います。作品を通じて人や社会がどのようにつながりたいのか、自分の存在が見えてくるようなお話でしょうか」
そうですね。アートや絵という形で表現する人もいれば、別の形で表現する人もいるわけです。アートや絵には共有しやすいという側面があり、そのようなかたちで表現してくれる人がいることを大事にしていきたいと思っています。例えば認知症の人が、症状が進むにつれて作品が変化していくのも一つの作品世界であり、同時に認知症という病気の状態やその人の人生を考えることもできるわけです。

「いわゆるアール・ブリュット作品のように販売することはないのでしょうか」
売りたいと思っている人はいます。でも実際はなかなか難しい側面があります。売るってことは作家であると同時にビジネスもしなきゃいけない。彼らの作品は生きるための、生きる中でできてきた作品なのです。市場に乗せるということは彼らの人生にすごく大きく影響することであり、同時にどれだけが本当に売れるかも考えていただけたらと。売買する行為との間には、作者との丁寧な橋渡しがいるんじゃないかと思っています。単に商品を売るのではなく、買う人との間にあるつながりができるということです。自分の作品を気に入ってくれるとか、大事にしてくれたというつながりが入ってるのが、彼らの作品の特徴だと思いますね。


鼎談 竹島 正×鈴木 賢一×小野さや香※



※小野さや香:なごやヘルスケア・アートマネジメント事業推進委員、アーティスト。本講座のコーディネーター


鈴木先生:ありがとうございました。アートの捉え方だとか健康の概念とか、私がいつも使うものとは少し違うんだなと気づかされました。教養とか治療としてのアートとかそういう機能を持ったアートという意味合いではなく、何か人間が根源的に表現するときに出てくるピュアな部分でのアートを竹島先生は大事にしておられると感じたわけです。

竹島先生:鈴木先生の活動に乗せて今日の話を考えてみると、例えば病院にはいろんな方が来られます。所得の高い人、そうでない人、逆境を経験した人もいる。そんな人たちが病院を訪れるときに、自分が受け入れられているという感じをどう出せるのか。そういうところが、今日の話の中で出てきたスピリチュアルな側面に入っている気がするのですね。
なぜ日本の病院の壁は白いのに、例えばオーストラリアの病院の壁は色や絵があるのだろうと考えると、そこに来るいろんな人たちを受け入れる空間であるからだと思うのです。いろんな人たちと意思疎通をするために、絶えず工夫をしていく必要性があるのかなと思いました。いろんな人が来るということを受け止めて、少しでも安心感を提供できるようにするという点では、先生と方向は一緒だという気がします。

鈴木先生:そう言っていただけるのはとても嬉しいです。しかし、私がやっているのはおそらく医療福祉の環境に何かサービスのように、アートをどう導入するかという視点だと思うんですが、先生は当事者が表現することそのものをすごく大事にしておられるということで、目的は一緒かもしれないですが違う手法だと感じました。

竹島先生:そうですね、だから先生のやっておられることと、私たちのやっていることとが、どうすればうまくコラボできるのか、それは興味深いことです。

鈴木先生:たしかに建築はやや不特定多数の人たちを対象にする傾向があって、個人を見ないというのか、多くの人たちを見てしまうところがあるんですけど、これまでの連続講義の中でも個人個人に入り込んでいくようなアートのあり様もいくつか教えていただいて、そういうところで先生と私との何か接点が持てればと思いました。
ちょっと話題を変えますが、夏になるといわゆる戦争とか原爆の話題が出てきて、被ばくした人あるいは加害者や被害者であった人たちが、ずっと黙っていた経験を絵や文章に表したりするのを、テレビなどでよく見聞きするんですけれども、先生がおっしゃった困難を経験した人たちが絵として表現することで、自分の居場所を得るというか、初めて解放されるというか、そういう見方を今日教えてもらったような気がしました。

竹島先生:大きく言えば我々の社会って、憎しみだとかそれに対するトラウマがまた次のところにいろんな形で発展し、繋がったりしてできていく。それが生産的に働くこともあれば、破壊的な形で働くこともあります。日本人は広島・長崎の原爆では被害者の立場を持ちながら、同時にアジア・太平洋戦争の加害者でもあるという両面を持っていて、絶えずそれを意識せざるを得ないのです。家族の中で両面を経験してる方もいらっしゃるはずです。綺麗事でなしに、やっぱり人って人に影響を与えながら生きてるわけですよ。余分な苦しい影響も与えちゃうわけですよ。そういう中で人が生きていくという事実は認めざるを得ないですね。

鈴木先生:なるほど。人となりと作品を同時に肯定するのが大事なのでしょうね。なぜその人からそういう作品が出てくるかを先生は分かった上で、きっと構成されているんだろうなと。

竹島先生:そうしたストーリーをちゃんと紹介する展示方法が大事だと思っていて、そういうことを丁寧にやる実践例があることで、みんなが考える機会が広がっていくんじゃないでしょうか。その中でその人の作品を欲しい、あるいはその人のストーリーに関わる資料を保存したいという人が増えることはやっぱり大事で、そこでできたものが先生のような建築関係の方の中で肯定され使ってみようという話になるといいなと思います。

鈴木先生:ありがとうございます。竹島先生の講座は本事業の推進委員の一人、アーティストの小野さや香さんがコーディネートしてくださいました。小野さんは先生と長いお付き合いだと思うんですけれど、今日はどんなことを感じましたか。

小野さん:そうですね、私は竹島先生の精神保健分野でのアートの関わりと、鈴木先生の建築空間にアートを導入していく分野とが、双方向に関わっていくことで、医療とか福祉とか人が弱った状態になったときに支えるものとしてアートが機能していく、その可能性が見えるんじゃないかなと思っています。
鈴木先生と以前お話したときに、今まで小児科病棟のアートの取り組みが多かったけれど、青年期や思春期、高齢者といったライフステージに合わせた治療環境がもっと考えられるんじゃないかというような言葉が印象的に残っていて、そのあたりは竹島先生のライフステージに合わせたメンタルヘルスというか、こころの有り様、捉え方、感受性の違いなどと共通する視点だと思うので、情報交換など関わりがもっと出てくると、空間設計をする場面でも新しい取り組みが広がっていくんじゃないかなと感じました。

鈴木先生:先ほど竹島先生からご紹介いただいた『心の苦しみへの理解』という訳本に女性とか子どもといったコンテンツがありましたが、今の小野さんの話と繋がるかもしれないですね。
WHOの健康の定義は僕も何度も見ているんですけど、やっぱり頭でしか理解していなくて、竹島先生は精神疾患の患者さんを診ているので、その方が生き生きしてるという状態そのものを感じていて、私たちの見方とずいぶん違うのかなと思いました。

竹島先生:私は人とその状況に興味があるんですよね。そこから見たときに、精神・身体・社会という3つの側面から健康をとらえることはとっても大事だとずっと思ってきました。だけど何か欠けている感じがあって、そこでは時間軸が見えづらい。その人がつながっている歴史をどう模索するかというときに、私の場合、スピリチュアルが出てきたんです。そうすると、スピリチュアルは歴史的な概念と捉えた方がいいかもしれないです。

鈴木先生:健康は現在の状況で捉えがちですけど、引きずっているものがあってのことなのですね。何だろう、絵が上手下手とか売れるか売れないかとかそういう概念ではなくて、何か湧き出るように表現できる機会があるといいですね。

竹島先生:それは共同かつ作業だと思っているんです。だからちゃんとその魅力を見せることができる見せ方があって、キュレーターみたいな仕事なのかもしれないですけど、それができるといいなと。

鈴木先生:アーティストの小野さんはその辺の感覚はどうとらえますか。

小野さん:そうですね、私はアーティストとして仕事をしていきたいという意識があるんですけれど、でもそれだけではなく、根源的な、人が生きることを支える表現の力があるんじゃないかと思っています。アーティストという社会的なくくりだけではなく、誰かのためではなく、生きる中で湧き出てくる表現したい欲求と、それから生まれたものが社会でどう扱われるのか、その表現の力を探したいって思いは私の中にありますね。
以前、竹島先生のプロジェクトに参加させていただいたときに印象に残った話があって、ある精神疾患をもった方が、表現をすることに出会って自殺企図がなくなったそうなのです。治療目的にはしてないけれど、表現というツールを得たときに、その人の自殺衝動が違うエネルギーに、創造のエネルギーに変換されるような力があるんだろうと、すごく興味深く思っているところです。ヘルスケアアートの枠組みの中でどう理解していくかは、まだ私も整理ができていないんですけれど、ただ人が病を抱えたり、すごく困難な状況に見舞われたときに、生きる意欲を取り戻していくようなツールとしてアートが何か役に立つんじゃないかとは思っています。

鈴木先生:絵に表現することが何か前向きな気持ちを引き出すことと密接に繋がっているんですかね。

竹島先生:人によって表現の仕方はいろいろあると思います。いわゆる依存症の人たちだったら自助グループに参加する中で語りを続けていくことが一つの回復になっていたりするわけで、それぞれ自分の向き不向き、あるいは組み合わせてもいいわけですから。ただ描いているときに「あなた下手だね。」と追い払わないのが大事だと思います。下手だからこそ描ける絵があるって、やっぱり私は思うんですよ。

鈴木先生:今日は健康とかアートについてもう1回ちゃんと考えましょうと言ってくださったような気がしています。どうもありがとうございました。


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