第3回 ヘルスケア・アートマネジメント連続講座 2018.07.18

博物館における学芸員の アートマネジメント

名古屋市博物館 副館長
神谷 浩

もくじ

今回、鈴木先生からこの講座を依頼されたとき、最初は何を話そうかと思ったのですが、先生からお話を聞いているうちに、私たち学芸員は、展覧会でいかにメッセージを伝えるか、どうしたら来館された方の心に響くのか、そういうことをいつも考えているのですが、そこに何か接点があるかもしれない、と思いまして今日はいくつか事例をご紹介させていただきます。

私がおります美術館や博物館の仕事は、学芸員個人に依存する部分がけっこう多くあります。出品交渉をするときに、例えば1億円もする作品を貸していただくわけですから、企画書や展示する施設も大事ですけども、貸す相手が信頼できるかに成否がかかってきます。
私は今年で勤めが最後なので、これまで培った信頼や人脈をいかにして若い人に継承させていくかを考えながら、仕事をしています。

それからもう一つ、私がやらなければならないと思っていることは、実践から得られたことを、どうやって伝えるかです。博物館学を大学で学びますが、あまり役には立ちません。例えば原稿の書き方、出品交渉の方法といった肝心なことはどこにも書いてないんです。それから、博物館や美術館は何のためにあるか、それもどこにも書いていない。そういう現状の中で、実際に若い人たちにどう仕事をしてもらうかを、いつも現場で考えながらやっています。


「お腹いっぱいにはならないが、胸いっぱいになる」


スライド:博物館法

さて。レジュメに用意した内容は全部、現場からの叩き上げの内容です。
「博物館は何のためにあるのか」。これは見事に博物館学に書いてありません。博物館法という国の法律を見てみましょう。法律の目的や定義は書いてあるのですが、そもそも何のために収集などをするのかは書いていない。


スライド:教育基本法

何だかまどろっこしいですけど、こうしたことを調べる前に、実は、考えるきっかけがありました。美術館に子どもたちが来るのですが、前に小学校の先生からこう言われたんです。「子どもたちにいったい美術館をどう説明すればいいでしょうか? 作品を見て何かいいことがあるのか、何のために行くのか。何と言えばいいのでしょう?」と。その時、ふと思ったんです。作品を見てもお腹いっぱいにはならないけども、胸いっぱいになるよ、と。


スライド:社会教育法

この話をしますとね、大人には受けるんです。でも、子どもは「はぁ?」です。それでもう少し変えてみました。動物はおいしい食べ物と魅力的な異性にドキドキする。つまりは生命の維持と種の保存ですよね。


ところが人間はそれ以外にもドキドキする。沈む夕陽を見てバカヤローと言ったり、書いていない行間を読み取って感動したりする。人間について調べると面白くて、自分のことを考えるのも人間だけらしいですね。人間はいろいろなものに感動する。シェークスピアの戯曲、悲劇を見にいく。どうしてお金を払ってまで悲劇を見に行くのか。変ですけども、それが人間なのです。


そんなことを考えていたら、たまたま瀬戸内寂聴の文章が目に留まりました。「人生の愉しみは、食べること、セックスすること、そして読書することに尽きるのではないでしょうか」。わ!同じことを言っている、と嬉しくなっちゃいましたね。


読書は時空を超えてきます。先ほど言いましたシェークスピア、ヨーロッパの文化にも感動できるわけです。それから芭蕉の俳句や源氏物語、時代を超えてメッセージが伝わる。すばらしいことです。
次に憲法です。私はずっとこれを言っております。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。


スライド:日本国憲法


健康とはもしかしたら、おいしい食べ物やステキな異性でしょうか。文化とは何かそれ以外の余分なもの。余分と言っては怒られますけども、憲法が全部保障しているんです。無駄には見えるけども、本を読んで涙を流す、感動する、それが人間の権利だと。美術館や博物館で体験できることは、まさにこのことではないか。


とうとう憲法までいっちゃいました。法律の解釈上は分かりませんけども、私の中で、憲法第25条はそういう位置づけなのです。そういうふうに考えていくと、美術館や博物館は何のためにあるのかと言ったら、役には立たないしお腹いっぱいにもならないですけども、でもやっぱり胸はいっぱいになる、ドキドキする。それは人間が人間でしかできない心の活動を確認しているわけです。だから本当は美術館や博物館はとても大事で、それをもっともっと強く言いたいですね。


博物館体験のもたらすもの


博物館での体験にもいろいろありますけども、私は3つに分けています。一番分かりやすいのが「モノとの出会いそのもの」です。万博でマンモスや月の石を見に行かれた人もいると思います。見ても「すごーい!」と思うだけで、勉強にはならない。でも出会うことが大変大きな財産になります。


例として、リンカーンの「ゲティスバーグ演説自筆原稿」、これを私は見たんです。20何年前、アメリカに行ったときに友人がリンカーンのコレクションで有名なハンティントン・ライブラリーに連れて行ってくれました。入っていくと髭をはやした見おぼえのあるリンカーンの肖像画などがあり、パッと目に飛び込んできたのが、手書きの「government of the people, by the people, for the people」の原稿でした。え!と驚いて、キャプションを見ると自筆の草稿だと書いてある。友人に聞くと「本物だ」と。驚きましたよ。言葉は知っているので、見たところで理解が深まるわけではないんです。でも本物と出会う感動ですよね。ちなみに、10年ぐらい前にもう一度行く機会がありましたが、見られませんでした。あまりに大事なものなので、今は展示していないそうです。

それからもう一つ私の体験でいくと、これはゴッホ美術館にある浮世絵です。ゴッホは日本が大好きで、浮世絵も持っていました。ゴッホと日本という展覧会の企画が当時ありまして、ゴッホの持っていた浮世絵400点を全部調査したところ、こう端に小さな穴が開いていました。穴が4つぐらい開いているのは紐で綴じた跡です。ところが、これは錆が付いているんです。おおーっゴッホだ!と興奮しました。というのも、ゴッホの肖像画に浮世絵が貼られた壁が描いてあるものがある。それから、ごく初期ころの手紙に、部屋いっぱいに浮世絵をピンで留めたよと弟に書いているんです。そのピンの錆と思うと私はまるでゴッホがそこにいるような気がして、すごくドキドキしました。モノとの出会いというのはそれくらいの感動があるんです。



モノから広がる面白さや知識


しかし博物館は、「モノとの出会い」だけでは決して終わりません。2つ目に挙げたのは「知識を得ること。知識を得る喜び」、それが博物館では求められます。説明が足りないと文句を言われるんです。

そして3つ目、これがなかなか難しいのですが、「資料から意味や意義、面白さ、知恵などに気付き、自ら見いだすこと」。これはハイレベルだと思います。私が美術館勤務から古巣の博物館に戻った時に、改めて気づいたことがあります。例えば石器、握るタイプの石器から柄がついた斧みたいなものになり、その次に槍、次に弓矢になる。それを常設展で見て、人間はこうやって遠くから狩りができるよう進歩していくんだ、と感心しました。そう自分では気づいたつもりですが、まだ甘いようで、それは安全に狩りができるように人間が工夫したということらしいです。そうしたことにいかにして気づいてもらうか。種明かしをするのではなく、本当は分かってもらいたい。

博物館に行くと瓦がきちんと並べて展示してあります。きれいに並んでいるな、で終わっちゃダメなんです。5年ぐらい前に、甚目寺の展覧会を博物館でやったときに、大きな瓦がどーんと置いてありました。驚いて少し考えました。大きな瓦が甚目寺から出た。こんな大きな瓦がのる建物として考えられるのは国府かお寺です。その瓦は今の甚目寺観音のすぐ裏から発掘され、様式は白鳳時代です。奈良の山田寺のものと様式がぴったり合います。そこまで分かってくると、ドキドキするわけです。そうかそうか、と。もうひとつ面白いのが甚目寺の創建です。古墳時代の終わりごろあの一帯は海だったそうです。甚目龍麿(はだめたつまろ)という人が漁をしていたら、網にきらきら光るものがあった。引き揚げたら仏像でそれを持ち帰って本尊として崇め奉ったというのが甚目寺の始まりです、と。だいたいそういうものです。ところがその時代、延喜式に書かれた話と瓦の時代がほぼ一致するんです。延喜式も半分はお話かもしれない、でも時代については間違いないことが分かってきた。もう少し想像をたくましくすると、大きな建物、お寺があるということは、大きな町があるはずです。町があるところには、文化がある、経済がある、流通がある。そういうところまで、ひとつの瓦からでも分かる、というのが博物館の最後の到達点だと思っています。

キーワードとしては何でも、「すごい」でもいいです。本当にすごいときには適切な言葉になりません。伊藤若冲の「動植綵絵」というとてもきれいな写生画の展覧会が京都の相国寺であり、行きました。会場では若い人たちがざわざわしながら「すっげー」と鑑賞している。これは美術作品ですから、説明も何もなしでも作品から直接感動を受けるんですね。

いろいろ博物館体験を話してきましたが、つまりは「面白くて、ためになって、しあわせになる」ということです。「面白くて」というのは、楽しくなくてはいけない。しかめっ面して修行してるわけじゃないんです、面白くなくてはいけない。「ためになる」、知識も得られる。そして最後には「しあわせになる」。なかなか難しいですけども。


分かったつもりの誤解。「考える」を誘発する工夫を


次にお話ししたいのが「博物館体験の落とし穴」。これは博物館に戻ってきて痛感しましたが、美術館でもあります。ゴッホの作品で、晩年になってからの本当に苦しそうな絵があるんです。ところが、それを見てある来場者は「素敵な色ね、ウキウキするわね」と言ったんです。こんなかきむしりたくなるような作品に何で!?と驚きました。結局、自分の目で見てないんです。何か言わなきゃいけと言った言葉なのですね。

博物館はなおさらです。これは縄文土器だ、火焔土器と言って代表的なものだ、とそれで終わっちゃうんです。これは秀吉の朱印状で、あの赤い印のあるのがご朱印、なるほどと思っちゃう。そうすると考えないんです。思考が止まっちゃう。


これは博物館体験で多くあるんですが、なぜそこに展示したのか、学芸員はもっと考えなくちゃいけない。そして説明に書いてほしい。かつては、「豊臣秀吉朱印状 誰々宛、どこどこ所蔵」で終わっちゃっていました。それでは何もおもしろくない。この朱印状は、中身が重要なのか、それとも数が少ないのか、何なのか。それをやっぱり知ってもらおうとしなくちゃいけないんです。

縄文土器もそうです。考古学資料は形だけを見るんじゃありません。岡本太郎のようにアートとして見るならいいですけど、出土場所や時代、どういう状況で出土したか、それが分からないと資料になりません。民俗資料でもそうです。例えば、金づちひとつでも、どこの人がいつ使っていたかが分かると、意味があるんです。博物館に縄文土器が並んでいるのを見て、あ、縄文土器だ!だけではもったいないです。なぜ展示されているのか、大きいのか、文様がすごいのか、それを分かるようにしてほしいと、学芸員にはいつも言っています。


調査研究からモノの意味や意義を伝える


それから、学芸員の仕事について。これがなかなか難しくて、展覧会準備で原稿を書いたりもすれば、電話やFAXもしますが、基本的には調査と研究がベースにあります。

まず「①モノから意味や意義を見いだすこと」。これは研究者でもそうだと思いますが、そこで終わらずに、「②見いだした意味や意義を市民に伝えるよう努力すること」と書きました。伝えて初めて学芸員なんですよ。多くの場合がモノを通じて発見したことなので、モノを展示することによって伝えると。

私は学芸員に必要な素養は、1に挨拶、2に時間を守る。3、4がなくて5に体力だと思っています。驚かれるかもしれないですけど、1,2は人間としての最低限のマナーですよね。それと体力です。

その上で、技術がいります。書きましたように「専門的・学術的知識」は当然いりますけども、それ以外に「鑑識力」。例えば偽物か本物か。これはけっこう絶妙なんです。時間がかかります。もう一つ、資料の取り扱い。掛け軸や巻物を扱う技術で、この人になら預けても安心という技術的なこと。それから、2番目に「研究意欲、研究能力」。これも絶対必要です。研究する時間がないのはしょうがないですけども。そして最後3つめは「自分の喜びを他人と共有したいと思い、努力する」。シェアする気持ちと、そのために努力すること。これが学芸員には絶対必要です。展覧会をしたときに、自由にご覧くださいで済むものもありますけども、こんなにいいものを見つけたから皆さん分かってよという気持ち、そしてそれにどれだけ努力するか。それが学芸員の最後の力です。

技術だけなら好事家・美術商ですよ。研究意欲、研究能力なら研究者ですね。学芸員に必要なのは3番目の能力ですね。簡単なものですが、ただ仲間内の分かる範囲でなく、大多数の市民の方も分かるように努力しなくてはいけません。


分かってもらうための工夫


美術館ではキャプションのつけ方が微妙です。特に現代美術などで空間全体を鑑賞する作品がありますよね。変な位置に大きなキャプションをつけたら困ります。何か配慮をしてほしい。例えば、荒川修作の現代美術の作品は作品Aとか、アルファベットと数字でタイトルがついています。これはあえて情報を見る人に与えず、自分で考えなさいというメッセージなのですが、キャプションに説明を何も書かないのではなく、そういう作家の意図がありますと、書いたらどうだろうかとスタッフには言っています。そうしたことを知ってもらう努力は必要ですから。

展覧会をすると図録を作ります。昔は図録の原稿から抜き出して作品解説をつくっていましたが、私は絶対それはするなと言っています。なぜかと言うと、図録を買う人は全体の1割もいないので、会場にあるわずかな説明だけでもきちっと理解できるようにしないといけません。だから会場のキャプションはもっと難しいんだと言っています。


悪いキャプションの例をお見せします。これは私が美術館にいたときにやった北斎展のキャプションです。さんざん言ったんですけどこういう説明をやっちゃいました。ここには芝居の説明などがつらつらと書かれていますが、今これを書くならば、例えば、「春朗」という落款があることから北斎の初期の作品であることが分かるとか、北斎が若い頃の作品であるがその描き方を見ると達筆でそれが分かる作品を出しているとか、そういう解説が欲しいなと思います。


もう一つ見てみましょう。これはベネツィア展で出品された大理石の井戸です。解説を見ると、「この井筒の装飾は3層からなるが、典型的なカロリング朝様式による…」と模様のことがずーっと書いてある。私は「書き直しだ!」と言ったのです。なぜか分かります? これ井戸ですよ。どうして紋様のことしか書かないの? なぜこんな説明になったかと言うと、実はイタリア人の彫刻が専門の先生が書いたんですが、それにしてもひどいとぶつぶつ言っていたところ、名古屋会場の担当者が作った子ども向けのキャプションを見ると「ベネツィアでは飲料水は雨水を貯めておきます」と書いてあったんです。これでなぜ井戸が出品されたのかわかりました。井戸は雨水を貯めておく、大事なものを保管するものなので、だからお金のある人は装飾して自慢するわけです。こういう文化はイタリアの学者にとっては常識だから書かない。しかし、日本人にはそういうことをすっとばすのではなくきちんと伝えないといけないのです。

キャプションもそうですけど、分かってもらうためにいろいろな工夫をします。例えば、浮世絵を150点並べて、1作品を2分で見ていたら300分、つまり5時間かかります。絶対に見られない。どうするかというと、ここはしっかり見て、ここは流して見てという強弱をつくるんです。ツボ、私が生み出した法則があるんですけど、展覧会に入ったらなるべく早いうちによかったと思わせ、中間と最後にもう1回軽いショックを与えるようにしています。展覧会の場合、年代順に作品を並べると最後が最晩年の老いぼれた作家の作品になってしまうけれど、そこにピシッとした作品を持ってくるんです。そうするとやっぱりよい展覧会だったと、いい印象を持ってお帰りいただける。どんなときでも最後に必ず、もう一押しするよう意識しています。


情報を伝え、反応を誘うタイトルに


それから、「来てもらうための工夫」もしなくてはいけない。一つはタイトルの重要性。例1として挙げましたが、私が「北斎と広重」というテーマで講演会を頼まれると、タイトルを「北斎か広重か」としてほしいとお願いします。そうすると、どっちがおもしろいとか、どっちが人気があるかとかいう話をするんじゃないかと反応してもらえる。私の博物館ではタイトルを真剣に考えてとよく言います。

関心のある人は、「ポンペイ展」のポの字が見えたら「行く!」となりますから、放っておいてもいいんです。一般的に考えるのは、迷っている人をいかに来させるかです。そういう人は逃しちゃいけない。そして私はもう少し先のことをやってと言うんです。ポンペイ?何それ?でも何か見たら面白そう、という人を引っ張り上げるようなポスターを作ってほしいと。その代わり来てもらったら分かってもらう工夫をします。なかなか難しいですよ。

それから例2で挙げた「徳川美術館所蔵 茶の湯名品展」というタイトルについて。会議でどう思うか聞かれたんですが、まずこう言ったんです、「徳川美術館の茶道具は全部名品に決まっているので、これでは展覧会の魅力発信にはならない。今回は○○が目玉!! という出し方のほうがいいのでは」と。それから、「初音の調度」という有名な所蔵品の展覧会があって、その名前を大きく出すんですが、知らない人にとっては初音ミクの何か?としか伝わらないんですよ。そこで、「日本一の嫁入り道具」とドーンと書いて、初音の調度と添える方がいいんじゃない?という話もしました。そんなようなことで、今では徳川美術館はタイトル検討会をするようになったそうです。みんなで話しているといいタイトルになるんです。漠然とタイトルをつけるのではなく、あなたは何がやりたいの?そのためにはこういうタイトルにしましょう、と建設的な意見がでるようになったんです。これはとても大事だと思います。


展覧会参加のさまざまな方法


よく参加型の展覧会とかワークショップとか言いますけども、ちょっと頭を切り替えていろいろな参加型があることを考えましょうと私は言っています。企画の段階で普通の市民に参加してもらうのは危険です。趣味の問題が入ってきてしまったりするので、ちょっと危ない。それからただ何かを作ったりするだけもおもしろくない。


例として、博物館で3年ほど前に「いつだって猫展」という展覧会の話をします。おもしろい傾向がありました。人数は思ったほど伸びなかったんですが、猫グッズや図録がすごく売れて、博物館の収支率の記録をつくりました。何が良かったかというと、猫好きをくすぐったのももちろんありますが、2つの面白い参加型をやったんです。自分ちの猫自慢、猫の写真を持ってきたら割り引きますよ、と。それだけじゃなく、入り口で写真を渡すと、すぐに出口の方で貼ったんです、すると、あ、うちの猫だ!と展覧会に参加したことになる。それから先ほど言った、シェアする気持ちを皆さん持っているんですよ。「この猫かわいい」という気持ちを共有したいと、そういう参加型もあるだろうと。それと「どの猫が好き?人気ニャンキング」という投票企画もしました。よくあるのは、最後に集計して発表するスタイルですが、私は毎日集計してくれといったんです。その集計の下にシールを貼ると、自分も参加している気分になるんです。



この写真は私ですけども、科学館で撮った宇宙飛行士の姿の写真ですね。これをSNSにアップすると「いいね」を押してもらえるわけです。それはまさに参加して、共有しあってるんです。こうした心理をうまく使って、皆に喜んで楽しんでもらう、これはとても大事ですね。いろいろな参加の方法、通り一遍ではなく、新しい感覚でやれることを博物館では考えています。


少数の深い満足だけでなく、広く薄い教育効果も


それから、ワークショップやイベントとか関連事業の私の考え方ですけど、博物館で利用者対象に20人参加のワークショップを5回やると100人です。本当にそれでいいのでしょうか? 展覧会に5万人、10万人の人が来るのに対して、100人ですよ。100人にワークショップをやって、それは担当者も参加者も満足度の高い体験かもしれないけれど、それだけのエネルギーがあるなら、10万人に薄くてもいいから教育効果をあげることも考えてほしい。10万人の人に0.1かければ1万ですよ。どっちがいいか、数字だけの問題ではないですけども、ワークショップ以外の方法もあることを忘れないでほしいと思います。

最後に集客について。収支のことはうるさく言われるんですが、博物館はそもそも集金施設ではなく学習施設。本来の目的を忘れちゃダメ。でも、なるべくたくさんの人にわかってもらおう、喜んでもらおうとすること。これは結果的な人数とは別にとても大切なこと。集客が悪いことではないですが、景品でつるのは絶対やめてほしいと思います。やっぱり本質的なところで満足してもらいたいですね。

それから、学芸員は観光の専門家じゃなく、観光の資源をつくるのが学芸員です。モノから意味や意義を見つけ、発見をすること、それは全部観光資源です。観光施策にはちょっと距離を置きましょうと。学芸員は観光のプロでもないので観光振興をしてもしょうがない、地に足の着いた研究をきちんとやりましょう、それが観光資源になるよと言っております。

今日の話に何か参考になるようなところがあれば幸いです。


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